最高裁判所第三小法廷 平成6年(オ)1746号 判決 1997年2月25日
上告人
前川慶子
右訴訟代理人弁護士
樽谷進
被上告人
松本要
右訴訟代理人弁護士
若原俊二
主文
一 原判決主文第一項の2及び3を次のとおり変更する。
1 被上告人は、上告人に対し、被上告人が上告人に対して民法一〇四一条所定の遺贈の目的の価額の弁償として二二七二万八二三一円を支払わなかったときは、第一審判決添付第一目録記録の各不動産の原判決添付目録記載の持分につき、所有権移転登記手続をせよ。
2 上告人のその余の請求を棄却する。
二 その余の本件上告を棄却する。
三 訴訟の総費用はこれを五分し、その二を上告人の負担とし、その余を被上告人の負担とする。
理由
第一 上告代理人樽谷進の上告理由一について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に昭らし、正当として是認することができ、その過程にも所論の違法は認められない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
第二 同二及び三について
一 所論は、要するに、本件において上告人が求めているのは現物返還のみであり、被上告人もまた、単に価額弁償の意思表示をしたにとどまり現実の履行もその履行の提供もしていないのであるから、原判決主文第一項3のごとき条件付判決をすることは民訴法一八六条に違反するのみならず、右のごとき判決をしても、登記手続上、上告人の遺留分減殺を原因とする所有権移転登記手続を防止することができないばかりでなく、価額弁償の時期により次の手続が異なるという不安定な結果となるのであって、上告人はかかる判決を求めていないし、また、本件は現物返還を請求している事案であって、価額弁償算定の前提となるべき目的物の価額算定の基準時を事実審口頭弁論終結時とするのは相当でない、というのである。
二 上告人の求めているのが単なる現物返還のみであり、原判決主文第一項3に趣旨不明確な点があることは所論のとおりであって、これを是正すべきことは後期説示のとおりであるが、被上告人は、原審において、後期のとおり、単に価額弁償の意思表示をしたにとどまらず、裁判所が定めた価額により民法一〇四一条の規定に基づく価額弁償をする意思がある旨を表明して、裁判所に対して弁償すべき価額の確定を求める旨の申立てをしているのであるから、原審がこれに応えて上告人の持分の移転登記請求を認めるに当たり、弁償すべき価額を定め、その支払を解除条件として判示したのはむしろ当然であって、そのこと自体を民訴法一八六条に違反するものということはできない。また、目的物の価額算定の基準時を事実審口頭弁論終結時より後にすることができないのは事理の当然であって、この点の所論は採用の限りでない。
三 以下、所論に鑑み、原審における被上告人の申立ての趣旨及びこれに対する原審の判断の当否について、職権をもって検討する。
1 上告人の予備的請求は、上告人から被上告人(受遺者)に対する遺留分減殺請求権の行使により上告人に帰属した遺贈の目的物の返還(不動産については持分の確認及び移転登記手続)を求めるものであるところ、被上告人は、右請求に係る財産のうち第一審判決添付第一目録記載の各不動産(以下「本件不動産」という)の持分については、裁判所が定めた価額により民法一〇四一条の規定に基づく価額の弁償をなすべき旨の意思を表明して弁償すべき価額の確定を求める旨の申立てをしている。そして、原審の適法に確定したところによれば、(一) 松本コウは、昭和六二年一月五日付け自筆証書により全財産を被上告人に遺贈する旨の遺言をした後、同月二六日に死亡した、(二) コウの相続人は、被上告人(長男)、慶次(次男)及び上告人(次女)の三名である、(三) コウの遺産である本件不動産につき、同年七月二日までに、本件遺言に基づき被上告人に対する所有権移転登記が経由された、(四) 上告人は、同月三〇日、被上告人に対して遺留分減殺請求権を行使する旨の意思表示をした、(五) 右遺留分減殺の結果、上告人は、本件不動産についていずれも原判決添付目録記載の割合による持分を取得した、(六) 原審口頭弁論終決時における右持分の価額は合計二二七二万八二三一円である、というのである。
2 原審は、右事実関係の下において、被上告人は上告人に対して本件不動産の前記持分の返還義務(持分移転登記義務)を負うが、右義務は価額の弁償の履行又は弁済の提供によって解除条件的に条件付けられているとして、予備的請求のうち本件不動産に関する部分については、「上告人が本件不動産について前記持分権を有することを確認する(主文第一項1)。被上告人は、上告人に対し、右持分について所有権移転登記手続をせよ(同2)。被上告人は、上告人に対し二二七二万八二三一円を支払ったときは、前項の所有権移転登記義務を免れることができる(同3)。上告人のその余の請求を棄却する。」旨の判決を言い渡した。
四 そこで、その当否につき判断する。
1 一般に、遺贈につき遺留分権利者が減殺請求権を行使すると、遺贈は遺留分を侵害する限度で失効し、受遺者が取得した権利は右の限度で当然に減殺請求をした遺留分権利者に帰属するが、この場合、受遺者は、遺留分権利者に対し同人に帰属した遺贈の目的物を返還すべき義務を負うものの、民法一〇四一条の規定により減殺を受けるべき限度において遺贈の目的物の価額を弁償して返還の義務を免れることが出来る。もっとも、受遺者は、価額の弁償をなすべき旨の意思表示をしただけでは足りず、価額の弁償を現実に履行するか、少なくともその履行の提供をしなければならないのであって、弁償すべき価額の算定の基準時は原則として弁償がされる時と解すべきである。さらに、受遺者が弁償すべき価額について履行の提供をした場合には、減殺請求によりいったん遺留分権利者に帰属した権利が再び受遺者に移転する反面、遺留分権利者は受遺者に対して弁償すべき価額に相当する額の金銭の支払を求める権利を取得するものというべきである(最高裁昭和五〇年(オ)第九二〇号同五一年八月三〇日第二小法廷判決・民集三〇巻七号七六八頁、最高裁昭和五三年(オ)第九〇七号同五四年七月一〇日第三小法廷判決・民集三三巻五号五六二頁参照)。
2 減殺請求をした遺留分権利者が遺贈の目的物の返還を求める訴訟において、受遺者が事実審口頭弁論終結前に弁償すべき価額による現実の履行又は履行の提供をしなかったときは、受遺者は、遺贈の目的物の返還義務を免れることはできない。しかしながら、受遺者が、当該訴訟手続において、事実審口頭弁論終結前に、裁判所が定めた価額により民法一〇四一条の規定による価額の弁償をなすべき旨の意思表示をした場合には、裁判所は、右訴訟の事実審口頭弁論終結時を算定の基準時として弁償すべき額を定めた上、受遺者が右の額を支払わなかったことを条件として、遺留分権利者の目的物返還請求を認容すべきものと解するのが相当である。
けだし、受遺者が真に民法一〇四一条所定の価額を現実に提供して遺留分権利者に帰属した目的物の返還を拒みたいと考えたとしても、現実には、遺留分算定の基礎となる遺産の範囲、遺留分権利者に帰属した持分割合及びその価額の算定については、関係当事者間に争いのあることも多く、これを確定するためには、裁判等の手続において厳密な検討を加えなくてはならないのが通常であるから、価額弁償の意思を有する受遺者にとっては民法の定める権利を実現することは至難なことというほかなく、すべての場合に弁償すべき価額の履行の提供のない限り価額弁償の抗弁は成立しないとすることは、同法条の趣旨を没却するに等しいものといわなければならない。したがって、遺留分減殺請求を受けた受遺者が、単に価額弁償の意思表示をしたにとどまらず、進んで、裁判所に対し、遺留分権利者に対して弁償をなすべき額が判決によって確定されたときはこれを速やかに支払う意思がある旨を表明して、弁償すべき額の確定を求める旨を申し立てたという本件のような場合においては、裁判所としては、これを適式の抗弁として取り扱い、判決において右の弁償すべき額を定めた上、その支払と遺留分権利者の請求とを合理的に関連させ、当事者双方の利害の均衡を図るのが相当であり、かつ、これが法の趣旨にも合致するものと解すべきである。
3 この場合、民法一〇四一条の条文自体からは、一般論として、原判決主文第一項3のように受遺者が現物返還の目的物の価額相当の金員を遺留分権利者に支払ったときは登記義務を免れると理解することにさして問題はないけれども、現実に争いとなってこれを解決すべき裁判の手続においては、何時までにその主張をなすべきか、その価額の評価基準日を何時にするか、執行手続をいかにすべきか等の手続上の諸問題を無視することができない。その意味では、原判決主文第一項3のごとき判決は法的安定性を害するおそれがあり、その是正を要するものといわなければならない。一方、受遺者からする本件価額確定の申立ては、その趣旨からして、単に価額の確定を求めるのみの申立てであるにとどまらず、その確定額を支払うが、もし支払わなかったときは現物返還に応ずる趣旨のものと解されるから、裁判所としては、その趣旨に副った条件付判決をすべきものということができる。弁償すべき価額を裁判所が確定するという手続を定めることは、この手続の活用により提供された価額の相当性に関する紛争が回避され、遺留分権利者の地位の安定にも資するものであって、法の趣旨に合致する。
4 なお、遺留分権利者からの遺贈の目的物の返還を求める訴訟において目的物返還を命ずる裁判の内容が意思表示を命ずるものである場合には、受遺者が裁判所の定める額を支払ったという事実は民事執行法一七三条所定の債務者の証明すべき事実に当たり、同条の定めるところにより、遺留分権利者からの執行文付与の申立てを受けた裁判所書記官が受遺者に対し一定の期間を定めて右事実を証明する文書を提出すべき旨を催告するなどの手続を経て執行文が付与された時に、同条一項の規定により、意思表示をしたものとみなされるという判決の効力が発生する。また、受遺者が裁判所の定める額について弁償の履行の提供をした場合も、右にいう受遺者が裁判所の定める額を支払った場合に含まれるものというべきであり、執行文付与の前に受遺者が右の履行の提供をした場合には、減殺請求によりいったん遺留分権利者に帰属した権利が再び受遺者に移転する反面、遺留分権利者は受遺者に対して右の額の金銭の支払を求める権利を取得するのである。
五 そこで、以上の見解に立って本件をみるのに、上告人は遺留分減殺により本件不動産について原判決添付目録記載の割合による持分を取得したが、受遺者である被上告人は原審において裁判所が定めた価額により民法一〇四一条の規定に基づく価額の弁償をなすべき旨の意思を表明して弁償すべき額の確定を求める旨の申立てをしており、原審口頭弁論終結時における右持分の価額は二二七二万八二三一円であるというのであるから、被上告人が同条所定の遺贈の目的の価額の弁償として右同額の金員を支払わなかったことを条件として、上告人の持分移転登記手続請求を認容すべきである。
以上の次第で、原判決には法令の解釈適用を誤った違法があり、この違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。そこで、職権により原判決を破棄し、上告人の申立ての趣旨を害さず、かつ、被上告人の原審における申立ての趣旨に副った主文とすべく原判決を一部変更した上、その余の上告を棄却することとする。
よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条、九二条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官可部恒雄 裁判官園部逸夫 裁判官大野正男 裁判官千種秀夫 裁判官尾崎行信)
上告代理人樽谷進の上告理由
一、<省略>
二、民事訴訟法第一八六条違反
1、控訴審判決は民事訴訟法第一八六条に違反している。
原告が求めた裁判は、不動産については持分権の確認と持分についての所有権移転登記手続であり、株券については株券の引渡である。
これに対し、被告が価額弁償の意思表示をなした。しかし、価額弁償の意思表示のみでは、受遺者は遺贈の目的物の返還義務は免れえず、価額弁償を現実に履行するが、これはその履行の提供をしなければならないことは最高裁判例である(最判昭和五四・七・一〇、民集三三―五―五六二)。
本件において、被告は価額弁償について、現実の履行もその履行の提供もしていない。そして原告は価額弁償など求めてはいない。あくまで、現物返還請求を求めている。
価額弁償の意思表示のみでは現物返還請求権は消滅しない以上、裁判所は民事訴訟法第一八六条に基づき、現物返還請求権を認めるしかない。本件では不動産につき、持分権の確認とこれについての所有権移転登記手続、株券につき、その引渡の判決である。
ところが控訴審判決は、原告が求めてもいない「3、一審被告は、一審原告に対し二二七二万八二三一円を支払ったときは前項の所有権移転登記義務を免れることができる。」との判決をした。これは民事訴訟法第一八六条に違反する。
2、被告が価額弁償を申し出たが、なお、原告は現物返還請求を主張する場合、裁判所は一定の弁償額を算定した上、その金額を強制執行前に支払うときは強制執行を免れることができる旨の本件のごとき判決をなす理由は、価額に争いがある場合、別訴を提起して判決により価額を確定し、これを弁償して現物返還を免れるという方法では、手続が煩雑であることによる。
しかしながら、控訴審判決のごとき判決をなしても、登記手続上、原告の遺留分減殺を原因とする所有権移転登記手続を防止する手段はない。
被告の価額弁償の履行の有無にかかわらず、原告は所有権移転登記手続をなしうるのである。
そして、現実に原告がその手続を実行してしまえば、被告は請求異議の訴をなすこともできない。被告としては価額弁償をなしたことを理由に、所有権移転登記抹消登記請求訴訟を提起し、改めて遺留分減殺を原因とする所有権移転登記の無効を争うこととなり、価額弁償をなしていないときは、共有物分割請求手続を踏むこととなる。
控訴審判決の手法によっても、価額弁償の抗弁において、弁償価額につき争いがある場面で発生する煩雑さの解決にはならない。かえって問題を混乱させるにすぎない。
原告は原物返還請求を求めており、これに添う判決を求めている。
原告は「一審被告は一審原告に対し、二二七二万八二三一円を支払ったときは、前項の所有権移転登記義務を免れることができる」という価額弁償の時期により、次の手続が異るごとき不安定な判決を求めてはいない。これは弁論主義に反する判決である。
三、判例違反
控訴審判決は「価額弁償算定の前提となるべき目的物の価額算定の基準時は、口頭弁論終結時と解するのが相当というべき」として、最高裁判所昭和五一年八月三〇日判決(民集三〇・七・七六八)を引用する。
しかしながら控訴審判決が引用する最高裁判所判決は、原告が価額弁償として土地価格に基づく金員支払請求をした事例である。
それに対し、本件は現物返還請求を求めている事例である。現物返還請求を求めている事例において、口頭弁論終結時における価額でもって価額弁償金額を算定し、同金額の支払により所有権移転請求を免れることができるとすると、本件のごとき不動産及び株券が目的物の場合、その目的物の価額変動があるにもかかわらず、被告は長年月経過後においても口頭弁論終結時の価格により算定された価額弁償額でもって現物返還義務を免れることとなり、不合理な結果となる。
また、本件のように上告審において争う場合、上告審継続期間の価額変動が考慮されない。上告審の審理が決して短期間でないことを考えれば、不合理な結果となること明かである。
前期最高裁判所判例の射程距離は、本件の場合をも含むものではなく、原告において価額弁償に基づく金員支払請求をなす事案を対象とするものである。
よって控訴審判決は前記最高裁判決の解釈を誤って適用している。